シリコンバレーが導く"Web2.0"後のネット社会
〜シリコンバレー誕生の秘密〜

シリコンバレーとは、サンフランシスコの南部、ダイアブロ山系とサンタクルーズ山系で囲まれた巨大な果樹園のある盆地。サンフランシスコから南東へクルマで30分の距離にある。現在のインターネット・テクノロジーの中心地であり、この片田舎が、世界のネット界を牽引しているといっても過言ではないだろう。この地の歴史をふりかえり、シリコンバレー、いや西部開拓史から、現在のWeb2.0の後にどのような世界がやってくるのかを予測してみたい。

1848年1月24日、カリフォルニアでジェームズ・マーシャルが金鉱を発見し、8月19日付けのNYヘラルド紙に掲載されると翌日から「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる現象が発生した。現在のシリコンバレーのサンノゼ郊外でも水銀などが採掘されたという。翌年、「フォーティーナイナーズ(Forty-niners=49年野郎)」と呼ばれる一獲千金を夢見た男たちが、世界の各地からカリフォルニアを目指した(現在はフットボールチーム名として残る)。

7万7,000人がつるはしと金だらいを持ってカリフォルニアへと集まった。リーバイ・ストラウスは、金ではなく、集まってくるコミュニティを、相手に蛇よけのインディゴブルーで染めた帆布でつくったパンツ「ジーンズ」を売り出し富を獲た。

フォーティーナイナーズは、すべてを賭けてこの地へ渡り、そして、この地に居住した。この西部開拓者精神のスピリッツの余波は、5年後、ペリー提督らが「開国」という名において、浦賀に来航(1853年)し、日本にまで西部開拓の余波は伝来していた。

日本は、この時、はじめて300年間の江戸時代の平和で安泰な時代と別れを告げ、輸出・輸入に頼らない(一部長崎などの地域を除く)国内消費生産型からの脱却した生活を結果としてアメリカに強いられることとなる。

南北戦争時代(1861-1865)、ホーム=ステッド法(1862年)が制定され、公有地に5年間定住し、開拓した者には160エーカーの土地が無償で与えられることによって金鉱を手にすることができなくても、土地によって西部に多くの農民が進出でき、開拓が急速に進んでいった。

1869年には最初の大陸横断鉄道が完成し、農作物などを物流させるための、物理的なネットワークも形成された。

フォーティーナイナーズの子孫たちは、過去の事にこだわらないベンチャースピリッツに満ちあふれた気風をこの地に育んだ。世界中の民族の中から、冒険心と自立心と射幸心のあるものだけが、この地に集まり、ベンチャースピリッツのあるコミュニティ群「シリコンバレー」を形成していく。


1891年、セントラル・パシフィック鉄道のリーランド・スタンフォードは、愛息の死を悲しみ、個人の資産を2,000万ドルを寄付し、パロアルト市の巨大な土地に「スタンフォード大学」を築いた。そしてこれからはこのスタンフォードがあたかも城下町として産・官・学・民のビジネスモデルが誕生していく、スタンフォード大学が、「シリコンバレー」そのもののインキュベーターとなった。

1930年、デビッド・パッカードとウィリアム・ヒューレットが、スタンフォード大学で出会う。MITからやってきたフレドリック・ターマン教授の指導のもと、ガレージから「ヒューレットパッカード社」を起こす。資本はターマン教授のポケットマネーの538ドルであった。

HP社は、ウオルト・ディズニーの「ファンタジア」用の新しい、まだ誰も聞いた事のない音を求めるニーズに答え、音響用発振器を8台を初受注して事業の成果をあげた。

1940年代、スタンフォード大学のフレドリック・ターマン教授は、「スタンフォード工業団地構想」を推進し、国防予算を獲得し、GEやロッキードなどの企業をスタンフォード近郊誘致に成功する。

1956年、東海岸のベル研究所でトランジスタを発明した、ウイリアム・ショックレーが生まれ故郷のマウンテンビューのガレージに「ショックレー研究所」を開設する(現在はレディオシャックとなっている)。

ショックレー研究所のロバート・ノイスとゴードン・ムーアをはじめとする「8人の裏切り者」と称されるメンバーが独立する。1957年、初のハイテク専門のベンチャーキャピタリスト、アーサー・ロックの仲介により、IBMの筆頭株主であるシャーマン・フェアチャイルドと一緒にフェアチャイルド・セミコンダクター社を創業。半導体ビジネスがこの地で生まれることとなった。

しかし、そのフェアチャイルド社においても、企業機密をもったまま続々と独立する脱サラが続き、その数は数百社となる。そのすべてがこの地に居住し、「シリコンバレー」と呼ばれる特異でオープンな気質を持った、「技術型コミュニティ社会」を形成していく。ファエチャイルドの子会社たちは、「フェアチルドレン」とも呼ばれた。

「独立するヤツを止めても無駄。むしろ競合会社になるより、その会社に資金援助し、投資利益を考えた方がいい」とノイスは考えた。また、給与よりもモチベーションを高めるストックオプションという企業内持ち株購入制度もこの時に生まれた。業績にあわせて、個人資産を高めるこのシステムは、数々の億万長者を生み、同時に企業の業績を追求できる組織形態が形成された。

1970年、ノイスとムーアはアーサー・ロックに事業計画をもちかけ、ハンガリーからの秀才アンドリュー・グルーブと共に「インテル社」を創立。1971年、日本の電卓メーカー、ビジコンより、チップの生産を依託され、インテルのテッド・ホフが世界で最初のマイクロ・プロセッサを開発した。
これがシリコンバレーの第一の波であった。

1970年代のフォーティーナイナイナーズは、スタンフォード大学に集まり、ホームブリューコンピュータクラブを組織化し、幾多のホームコンピュータづくりの成果の発表をおこなっていた。HPで働くスティーブとアタリで働くの2人のスティーブは、自作パソコン、「アップルI」をロスアルトスのガレージから発明した。アップルコンピュータの誕生であった。

アップルコンピュータの隆盛とは反対に、シリコンバレーはアメリカの景気低迷のあおりを受けていた。軍需産業の縮小。半導体過剰供給により半導体不況は、シリコンバレーの80年代なかばから90年代にかけて深刻の事態をつくってしまった。人員削減、工場閉鎖、リストラをくり返した。

80年代中ばから90年代初頭、シリコンバレーの半導体ビジネスの変わりに誕生したのが、スタンフォード大学を中心としたコンピュータ産業だ。アップルをはじめとして、スタンフォード・ユニバーシティ・ネットワーク社(現在のサンマイクロシステムズ)、シリコングラフィックス社らが新しい時代のコンピュータプラットフォームを生む。急速な進化を遂げる影には、ベンチャーキャタリストやエンジェル、そしてスタンフォード大学の人的ネットワークは欠かせなかった。
これがシリコンバレーの第2の波である。

また、93年には「スマートバレー公社構想」がスタートし、非営利団体組織NPOとして、シリコンバレー全体の共同プロジェクトを起こし、活性化へと導き、1998年その役割を終えた。

スタンフォード大学のジョークに、1番優秀な学生は自分で事業を起こし、ベンチャーの支援を受けNASDAQへのIPO(店頭公開)をめざす。2番目に優秀な人は、ストッックオプションが持てる有望な中小企業へ入りストックオプションを買う。そして3番目はあたりさわりのない誰もが知っている上場している大企業にいくそうだ。

今日もスタンフォード大学のThe Coffeeshopでは、カフェラッテとサンドイッチを片手に事業計画書を検討している。隣の席からでも事業計画は、丸見えである。

金曜の夜では、企業で「ビアバースト」と呼ばれる情報交換をかねた交流会がひらかれている。そこでは、ライバル会社からも参加して、情報交換をするという。また、彼らは2年くらいで、よりいい条件の会社へホップしていくという。長くても一つの会社では5年という。まるでカウボーイのようにさすらうのである。しかし、職場は変わっても職種をかえないという彼等なりのルールがある。

まるで、シリコンバレー株式会社の中の事業部を移動しているだけとう感覚なの
だ。また情報に関してもオープンな印象を受ける。自分たちの考えているビジネスプランをガンガン、近隣のレストランでディスカッションしている。胸のネームタグでどこの企業かは人目でわかる。そんな信じられない光景がシリコンバレーでは当たり前であった。

1994年、インターネットの商業利用が開始され、インターネットベンチャーの第一世代が登場する。Netscape Yahoo Infoseek hotwired そして、 Lycos Excitetの前身だ。1996年、こぞってこれらのインターネットベンチャーがIPOを果たしていく。もちろん、その立役者は、ベンチャーキャピタルである。
資金だけを投入し、絶対に確実な取引きにだけ応じるという、どこかの国のベンチャーキャピタルとは、多いに違っている。

無料のサービスに価値を認めたベンチャーキャピタルが投資をし、経営陣までをヘッドハンティングしてくる。創業者イコールCEOではない、創業と経営の分離をすすめているのだ。ベンチャーキャピタルは企業に投資をするだけではなく、企業の成長に必要なすべての面倒をみている。しかもたった2年で新たなマーケットと新たな雇用を生み、新たな社会を作りだそうとしている。

インターネットベンチャーは、シリコンバレーの第3の波だ。

この第3の波の特徴は、オペレーション業務のセルフサービス化であるともいえる。今まではサービスを受けるには誰かのオペレーション業務にゆだねなければならなかった。インターネットはこのオペレーション業務を変えてきた。

自動車を売るのも買うのも、URLをたたくだけ。株を買うのも、銀行に送金するのも、旅行の手配も、テレビ番組を選ぶのも、図書館で検索するのも…。地図で探すのも。今まで待たされていたり、自分でコントロールできなかったことがHTTPサーバを通じてどんなサービスでも利用できるようになったのである。セルフサービスで何でもできる時代なのだ。

たとえば、1999年でさえ、自宅で飛行機の便と座席を決めて、食事はチキンと白のシャルドネを予約。到着地には、赤色のコンパクトカーで、GPSで訪問先の目的地をセットアップ。滞在先のホテルには、パソコンとテンポラリーな転送メールアドレスと日経新聞の衛星版をリクエスト。自宅にFEDEXのカーゴが30分後にラゲッジをピックアップに来る予定だ。

滞在先のホテルに荷物だけに先に空いていたカーゴ便で配送し、30分前の空港のチェックインは不要で、パスポートと手荷物だけを持っていく。

税関を物理的に通れば、あとは機内に乗り込み、「メラトニン」を飲んでぐっすりと眠るだけ。車を買った時にもらった提携マイレージポイントと会社が加盟しているコーポレート提携ポイントで飛行機もホテルも自動的にアップグレードしていた。

これはサービス産業の変化とも捉えることができる。情報ソースにサービスを加えていたが、これからはサービスは不要で情報ソースをそれぞれがセルフサービスでオペレートする傾向もみえてきている。ロイターやUPIがかつてコンスーマーを直接相手にすることは考えられなかった。しかし、もはや小学校でさえロイターの外電を受けられるようになった。カット&ペーストで構成されていた従来の大手マスメディアの情報の価値は、半減してきている。

また、メディアやエージェンシーと共存したマーケットをつくるニューヨークのシリコンアレイも拡大されたシリコンバレーといえる。そこでは、インターネットや「Webサイト上におけるメディア開発(コミュニケーション型ネット)」に未来を見い出そうとする。技術ではなく、メディア型の次世代の姿が見られた。

1990年代後半、マイクロソフトがアップルへの資本参加、AOLのNetscape社の買収。通信キャリアの統合、金融の統合、自動車産業のメガコンプレックス。メディア業界の吸収合併、空前の資本M&Aの動きが登場する。

1999年、黒船と同様に、日本にもインターネットのベンチャーが大量に発生した。日本の場合、アメリカのネット事業の成功をもとにコピー&ペーストしたビジネスモデルでも安易に資金を調達できたのである。

年収10万ドルを投げ出し、そのわずか半額くらいのインターネットベンチャーへ身を投じるのだ。今までのキャリアップ型と明確にちがうストックオプション一獲千金型のゴールドラッシュが始まり、ゴールドラッシュのように「ネットバブル」は一瞬に消え去ってしまった。

1999年11月「レッド・ヘリング」誌のアンソニー・パーキンス編集長はそれらをインターネットの「バブル」と予測し、その半年後の2000年04月14日、それは本当の姿として現れた。

2000年04月14日、米国ナスダックが史上最大の暴落を記録した。そして日本にもその「バブル」は間髪入れずに上陸した。




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